廃藩置県と町村区画の変遷
幕末期の動乱の中で、大聖寺藩は、幕末の大聖寺藩随一の教育者であり、儒学者でもあった藩士、東方芝山を登用して、富国強兵策をとりました。また、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、本藩である加賀藩の方針に従って幕府軍に与しようとしましたが、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れたことを知ると、やむなく新政府軍について北越戦争に出兵しました。なお、最後の第14代藩主、前田利鬯は、明治2年(1869年)の版籍奉還で藩知事となりましたが、明治4年(1871年)の廃藩置県で職を解かれました。
明治4年7月に、明治新政府の廃藩置県により、大聖寺県が誕生しました。しかし、この年の11月には、金沢県に合併されたので、大聖寺県が在ったのは、僅か4ヶ月のことでした。なお、金沢県も明治5年2月には石川県と改称しましたので、これ以降、当地は石川県江沼郡となりました。
こののちは、江沼郡はいくつかの区に分けられ、さまざまな変遷がありましたが、明治11年7月にはようやく「郡」が行政区画として公認され、大聖寺に江沼郡役所が設置され、郡長が配置されました。また、郡のもとには、23ヶ所の「戸長役場」が置かれ、明治17年には14ヶ所に統合されました。
明治22年には、明治政府による地方制度の総仕上げとして、市制・町村制が実施されました。これにより、江沼郡は1つの町(大聖寺)と24の村に整理されました。
浦上キリシタンの預かり
明治政府は、神道国家を進めるために、キリスト教の国内布教を認めず、旧幕府同様の禁圧政策をとり、明治元年(1868)4月、浦上(長崎)の信徒3,300人余りを全国20の諸藩に分けて配流することを決定しました。大聖寺藩では、50人のキリシタンを預かり、明治3年(1870)1月、大聖寺庄兵衛谷の鉄砲場の長屋に収容しました。藩では、御預けキリシタンたちの改宗を迫るため、藩内の各真宗寺院に説諭を命じました。説諭は、数人ずつ分けて、各寺院に預け、僧侶らによっておこなわれました。『大聖寺藩史』によれば、結局、50人のうち、5人が病死し、のこり45人のうち、改心した者は18人であったと記録されています。この浦上キリシタンは、明治5年7月に金沢の卯辰山に送られましたが、この配流については、諸外国からの強い抗議もあり、明治6年すべての信徒が釈放されました。
みの虫一揆
明治4年11月1日、大聖寺藩領内で農民一揆が起こりました。この一揆は、胴ミノを着た農民の姿が蓑虫に似ていたので「みの虫一揆」と呼ばれています。11月24日の夜、農民たちは打越勝光寺の門前に集結し、大聖寺県の租税係などをしていた役人たちの家を次々と襲い打ち壊しました。翌日には農民およそ千人が敷地村の端で青池大参事らに七か条の要求をつきつけました。その主なる内容は、大聖寺藩が赤字財政を補填するためにとった増税策に対する見直しや十村役の廃止などでした。この一揆に対して大聖寺県はやむなく兵士を出動させ発砲したので、農民一人が死亡し数人が負傷しました。やがて農民たちは退散し、同日の深夜、一揆は鎮定しました。この一揆では8人から9人が逮捕され、首謀者であった上分校村の新家理与門は、翌年6月、金沢の刑務所で獄死しました。現在も分校町には、明治28年に江沼郡の町村長が発起人となって建てられた理与門の石碑があります。
明治・大正期
明治天皇の北陸巡幸
明治11年、明治政府は太政官布告で天皇の北陸道・東海道の巡幸を行なうことを発表しました。巡幸は右大臣岩倉具視や参議大隈重信らを従え、総勢798人という空前の人数でした。8月30日に東京を出発し、富山県(当時は石川県)に入ったのは9月28日でした。一行は金沢に3日間滞在し、この間、天皇は石川県庁で県令より県治事業の概要などを聴き、産業などの公益功績者の具申を受けました。そのなかには、製茶の渡辺宗三郎や琵琶湖に汽船を走らせた石川嶂、九谷焼画工の浅井一毫など、大聖寺の人たちもいました。10月6日には、小松の串茶屋村から動橋村に入り、その日の午後に大聖寺町に到着しました。敷地村では、前田利鬯をはじめ、錦城、有隣の両小学校の生徒たちのお出迎えをおこない、行在所となった錦城小学校には急遽「御座所」がつくられ、その部屋でご休憩をされました。その日のうちに、行列は従来からの北陸道ではなく、明治9年にできたばかりの熊坂新道を通って福井の方へ向かいました。
加州松島社と鉛筆製造
明治8年(1875)富士写ヶ岳山麓の片谷村で良質の黒鉛が発見されました。この黒鉛を利用して鉛筆製造をしようとようと考えたのが、旧大聖寺藩士で、当時、大蔵省の役人をしていた飛鳥井清でした。彼は、この鉛筆製造を窮乏していた旧大聖寺藩士の士族授産の一助にしたいと考えたのでした。明治10年12月、飛鳥井は明治6年に開催されたオーストラリア万国博覧会で鉛筆製造の技術を学んできた井口直樹という人物の指導を受けて、旧藩士、柿沢理平を工場長にして「加州松島社」という会社を大聖寺松島町に創設しました。理平はさまざまな工夫を重ねて、ついには明治16年オランダのアムステルダム
万国博覧会で第一級第一等賞を獲得し、舶来品に劣らない良質の鉛筆を大量に作り出すことに成功しました。これは、明治20年に三菱鉛筆の創始者真崎仁六が鉛筆の製造を始めた時よりも4、5年早いこととなります。大聖寺山ノ下寺院群の一つ、久法寺境内には鉛筆製造に生涯を捧げた柿沢理平の墓があり、その戒名には「制鉛院造筆日肇居士」と刻まれています。
九谷焼の振興
明治9年(1876)大聖寺の大沢十次郎は、フィラデルフィア万国博覧会に江沼郡の九谷焼やお茶を出品するために、金沢の貿易商、円中孫平と共にアメリカに渡りました。帰国後、横浜に店舗を開き、九谷焼や漆器、製茶などの郷土の物産を販売しました。明治11年にはシカゴに支店を設け、販路を拡大しました。一方、大聖寺の井上商店(屋号「陶源」)も山中漆器や九谷焼を海外に輸出する貿易商として活躍していました。特に、海外の需要に基づき江戸時代の中頃の染錦伊万里の写しを大量に生産しました。これらの焼き物は、仕上がりが大変良く、「大聖寺伊万里」と呼ばれて、江沼郡における九谷焼業界の隆盛を築くもととなりました。
絹織物業と製糸業の発展
江戸時代より、庄や大聖寺において生産された絹織物は、近代以降も江沼郡における最も重要な工業製品でした。なかでも、真っ白で肌ざわりのよい「羽二重」と称する製品は福井県や石川県の特産品となり、多くの生産額を誇っていました。江沼郡では主に大聖寺で生産されたため、「大聖寺羽二重」として全国に知られ、海外にまで輸出されました。その後、粗悪な製品を出したことで評判を落としたり、大聖寺の大火により多くの工場や事務所を焼失したりしたために、一時、生産が振るわなくなった時期もありましたが、篠原藤平や清水孝平、豊田鍋吉などの大聖寺の機業家たちの努力により、大聖寺の絹織物は再び隆盛をむかえました。
一方、製糸業は、養蚕の副業として江戸時代から行われていましたが、明治15年に郡内に2ヶ所の製糸伝習所を設けたことで発展の基礎が築かれました。
明治36年には郡立製糸伝習所が設置され、製糸業は郡内一円に広まりましたが、大正中頃からはしだいに衰退していきました。
リム・チェーンの製造
当地は全国でも有数の、バイク、自動車、機械などのリムやチェーンの部品製造の拠点地となっていますが、そのきっかけとなったのは新家熊吉という一人の漆器職人の力によるものでした。
初代新家熊吉は元治元年(1864)、山中村で漆器木地をひく職人の家に生ま
れました。16歳のとき、すでに家業を継ぎ、すぐれた技術を身につけて、家業を成長させました。明治32年には漆器を輸出するために中国やロシアなどに出かけましたが、その旅先で見た自転車に強い関心をもちました。それは、自転車の車輪(リム)が木製であり、その製造に漆器製造の技術が役立つのではないかと考えたからでした。
明治36年(1903)、熊吉は従業員15名で自転車の木製リムを製造する会社「新家商会」をつくりました。新家商会の木製リムは、ほとんどの国産の自転車リムに利用されるまでに成長し、大正2年(1913)には、鉄製リムの生産に切り換えるなど、新家商会はこの分野では日本有数の会社にまで発展しました。そのことが元となり、その後、いくつもの変遷を経て、現在の大同工業株式会社となりました。
大聖寺博覧会の開催
「大聖寺博覧会」は、明治12年(1879)の4月から5月にかけて、15日間にわたり、大聖寺の錦城小学校と遷明中学校の2か所を会場に盛大に開催されました。この博覧会は、旧大聖寺藩の家老前田幹や権大参事飛鳥井清らの企画によるものでしたが、明治維新後の江沼郡における初の博覧会の開催であり、石川県内でも明治5年の金沢展覧会、同7年の金沢博覧会に次ぐ早い時期の開催でした。
大聖寺川を利用した水力発電事業
明治15 年(1882)、日本で最初の電灯事業が始まって以後、電力需要は徐々に高まり、当地にもその波が押し寄せてきました。明治44 年(1911)、電力の必要性をいち早く感じていた北前船主たちが中心となって、「大聖寺川水力発電株式会社」が創立されました。山中町に発電所を作り大聖寺や山中・山代の温泉地へ電力供給を始めたのです。一般家庭への電灯供給が第一の目的でしたが、この地域ではそれ以外にも特殊な需要がありました。山中・山代の温泉旅館が電灯を必要としていたこと、大聖寺を中心とする機織業や新家工業などを中心とした企業などが電気動力を必要としていたこと、さらには当時すでに山中、大聖寺間と山代、動橋間を結んでいた馬車鉄道を電化するために発電が急がれていたという背景がありました。
大津事件と北ヶ市市太郎
大津事件とは、1891(明治24)年5月に日本を訪問中のロシア帝国の皇太子・ニコライ(のちに帝政ロシア最後の皇帝となったニコライ2世)が、いまの滋賀県大津市で、警備にあたっていた巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した暗殺未遂事件のことをいいます。この時、津田を組み伏せ、サーベルを奪い、皇太子ニコライの命を救ったのが、ニコライ一行の人力車の車引きをしていた北ケ市市太郎ともう1人の車夫、向畑治三郎の2人でした。北ケ市市太郎は江沼郡庄村字加茂(現在の加賀市加茂町)の出身で、身長は2メートル近くの大男で、明治20年、29歳のとき京都に出て人力車の車夫になったと伝えられています。事件後、この二人は一躍、救国の英雄として全国から注目を集めることになり、政府から年金36円が支給されただけでなく、ロシア政府から当時の金額で2500円の報奨金と1000円の終身年金が与えられました。その後、市太郎は郷里、江沼郡に帰り、明治32年の郡会議員選挙に出て当選し、郡会議員を勤めるなど郷土の名士となりました。しかし、その後、日露戦争がおこると、彼はロシアのスパイと非難を受けることとなり、寂しい人生をおくりました。
八十四銀行の創業と破綻
明治11年(1878)11月、大聖寺に第八十四国立銀行が設立されました。当時は、金禄公債を資本金として国立銀行が全国に150行余りが設立され、八十四銀行はその一つでした。その後、八十四銀行は本店を東京の京橋に移し、大聖寺をただ一つの支店として経営を続けました。明治30年5月には、酒問屋を経営していた東京の中沢彦吉が譲り受け、八十四銀行は民営となりました。その後、大聖寺のほかに、東京に5か所の支店を設け、首都圏における二流銀行としての地位を築きました。
八十四銀行が順調に営業を続けていけたのは、創業地である大聖寺支店での織物業主や北前船主らの多額の預金を背景とした高い業績のためと言われています。
ところが、関東大震災や世界恐慌とそれに伴う大聖寺の織物業の不振などのあおりをうけ、昭和2年3月、一転して、八十四銀行は突然の休業に入りました。これにより、江沼郡では八十四銀行への取り付け騒ぎがおきました。郡役所や大聖寺町、大聖寺商工会でも預金者への救済に乗り出しましたが、営業再開の目途はたたず、結局、いくつかの休業銀行を整理統合した昭和銀行をあらたに設立することで解決が図られました。半世紀にわたって江沼郡の金融を支えてきた八十四銀行はその姿を消しました。
片山津温泉の発展
片山津温泉の始まりは、1653年(承応2年)、後に大聖寺藩2代藩主となる前田利明が柴山潟に鷹狩りに訪れた際、水面に水鳥が群れていたことから湖底の温泉を発見したと伝えられています。その後、幕末から明治初年にかけて温泉の掘削を試みた記録がいくつかありますが、いずれも安定した湯量を確保することはできませんでした。
明治9年(1876)、当時、県の役人であった近藤幸即らが柴山潟で大規模な埋め立て工事を行ない、その結果つくられた人工島に橋が架けられ、ようやく人々が温泉に入浴できるようになりました。明治15年(1882)には、井戸掘りの森仁平を石川郡から招き、さらに掘削し、湯量を確保することに成功しました。以後、温泉旅館が次々と開業し、今日の片山津温泉が形成されました。
近代の戦争と犠牲者
金沢に歩兵第七連隊が配置されたのは明治8年(1875)9月のことで、この連隊がはじめて戦闘に参加したのは、旧薩摩藩を中心とする士族が西郷隆盛を擁して起こした「西南の役」(明治10年)でした。西南の役は明治期最大の士族反乱で、この戦いにおける石川県の戦没者は459名と極めて多く、この後、勃発した日清戦争での犠牲者の2倍にもなっています。なお、この西南戦争における江沼郡出身の従軍者は75名で死者は8名でした。
明治27年(1894)の日清戦争は、日本が中国大陸や朝鮮半島でおこなった大規模な対外戦争でしたが、この戦争での石川県全体の戦没者は197名で、このうち江沼郡出身者は19名でした。
明治37年(1904)の日露戦争においては、その犠牲者は日本全体で6万人を超え、日清戦争とは比較にならないほどの犠牲を被りました。旧江沼郡出身の戦没者も211名にのぼっていました。
昭和16年(1941)12月、日米開戦から昭和20年の敗戦までの間、太平洋戦争で犠牲となった石川県関係の戦没者は2万2,788人という大きな数となっており、このうち江沼郡出身の戦没者は1,536人でした。
北陸線の開通と電車網の整備
明治26年に、敦賀から富山までを結ぶ、国営による北陸線の敷設工事が始まりました。明治30年には、福井、金津などを経て、大聖寺、小松に至る工事が完了しました。大聖寺駅がオープンしたのが、この年の9月20日で、当日は、大聖寺駅構内には多くの人々が押し寄せて、警官や駅員がその整理にあたり、列車が到着すると大歓声があがり町民こぞって大喜びしたと伝えられています。
ところで、江沼郡に北陸線が開通したことで、本線から奥まったところに位置していた山中温泉で山中馬車鉄道株式会社が設立され、明治33年5月から、山中温泉と大聖寺駅を結ぶ8.6㎞の馬車鉄道が開通しました。引き続き、明治43年に山代温泉と動橋間が、大正3年には動橋と片山津温泉間をはしる馬車鉄道がそれぞれ開通し、江沼郡内における北陸線と各温泉地を結ぶ交通網が完成しました。なお、大正元年9月には山中馬車鉄道は山中電気軌道と社名をあらため、石川県内で最初の電化を実現しました。これを機に、山代や片山津の各鉄道馬車も温泉電気軌道株式会社として運営が一元化され、加賀温泉郷を結ぶ路線すべてが電車に切り替わりました。以後、この電車は、昭和17年までの約30年間にわたって「温電」の名前で愛され続けました。
昭和時代
福井震災と郷土
戦災の記憶がまだ覚めやらぬ昭和23年6月28日の夕方、福井県坂井郡丸岡町(現在の福井県坂井市丸岡町)付近を震源とする大地震が発生しました。地震の規模はマグニチュード7.1でしたが、極めて浅い直下型地震であったため、江沼郡内でも大きな被害がでました。とりわけ大聖寺町、三木村、瀬越村、塩屋村など、福井との県境に近い町村の被害は甚大でした。結局、江沼郡全域では、死者39名、負傷者451名、住宅全壊791戸、半壊1,231戸をはじめ、北陸線の断絶、牛の谷トンネルの崩落をはじめ、各地の橋が落下するなど、多くの被害をだす未曾有の大惨事となりました。
学問と芸術
鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北するや、大聖寺藩は、当初の幕府側から一転して新政府側につきました。この間、政治的には主体的な動きができなかったこともあり、その分、教育の振興や学芸の奨励に力をいれました。
幕末、大聖寺藩は優秀なる藩士を多数、大坂の緒方洪庵の適塾や東京の福沢諭吉の英学塾、安積艮斎が指導する塾をはじめ、金沢や越前大野、長崎などに派遣しました。
また、最後の藩主、14代藩主前田利鬯も漢学や歌道、絵画、書道、茶道、能楽など幅広い教養を身につけ、特に、能楽では、宝生流を極め、素人ながら芝公園能楽堂の舞台にも立ち、また謡二百五十番を諳んじていて、どんな曲でも求められれば即座に歌うことが出来たといわれています。利鬯の努力もあり、この後、大聖寺では錦城能楽会が誕生し、宝生流の能楽が伝承されるきっかけとなりました。
当地域のこうした学芸を尊ぶ風潮は、明治、大正、昭和と受け継がれ、哲学者の木村素衛や憲法学者の上杉慎吉、考古学者の三森定男、科学者の中谷宇吉郎や大幸勇吉、作家の深田久弥、生物学者の木村有香、医学者の桂田富士郎、本川弘一、歌人の西出朝風などを輩出する要因ともなりました。