近代編

(『加賀市歴史文化学習帳』より)

 

 

 

幕末・維新期

 


廃藩(はいはん)置県(ちけん)町村(ちょうそん)区画(くかく)変遷(へんせん)

 

幕末期の動乱の中で、大聖寺藩は、幕末の大聖寺藩随一(ずいいち)の教育者であり、儒学者(じゅがくしゃ)でもあった藩士、東方(ひがしかた)芝山(しざん)登用(とうよう)して、富国(ふこく)強兵(きょうへい)(さく)をとりました。また、慶応4年(1868年)の戊辰(ぼしん)戦争では、本藩である加賀藩の方針に従って幕府軍に(くみ)しようとしましたが、鳥羽(とば)伏見(ふしみ)の戦いで幕府軍が(やぶ)れたことを知ると、やむなく新政府軍について北越(ほくえつ)戦争に出兵(しゅっぺい)しました。なお、最後の第14代藩主、前田利鬯(としか)は、明治2年(1869年)の版籍(はんせき)奉還(ほうかん)で藩知事となりましたが、明治4年(1871年)の廃藩(はいはん)置県(ちけん)(しょく)()かれました。

 

明治4年7月に、明治新政府(しんせいふ)廃藩(はいはん)置県(ちけん)により、大聖寺県が誕生(たんじょう)しました。しかし、この年の11月には、金沢県(かなざわけん)合併(がっぺい)されたので、大聖寺県が()ったのは、(わず)4ヶ月のことでした。なお、金沢県も明治52月には石川県と改称(かいしょう)しましたので、これ以降、当地は石川県江沼郡(えぬまぐん)となりました。

 

 こののちは、江沼郡はいくつかの()に分けられ、さまざまな変遷(へんせん)がありましたが、明治117月にはようやく「(ぐん)」が行政(ぎょうせい)区画(くかく)として公認(こうにん)され、大聖寺に江沼郡役所が設置(せっち)され、(ぐん)(ちょう)配置(はいち)されました。また、郡のもとには、23ヶ所の「()長役場(ちょうやくば)」が()かれ、明治17年には14ヶ所に統合されました。

 

 明治22年には、明治政府による地方制度の総仕上(そうしあ)げとして、市制(しせい)町村制(ちょうそんせい)実施(じっし)されました。これにより、江沼郡は1つの町(大聖寺)と24の村に整理(せいり)されました。

 

 

 

浦上キリシタンの(あず)かり

 

 明治政府は、神道(しんとう)国家(こっか)を進めるため、キリスト教の国内布教(ふきょう)を認めず、旧幕府同様の禁圧(きんあつ)政策(せいさく)をとり、明治元年(18684月、浦上(長崎)の信徒(しんと)3,300人余りを全国20諸藩(しょはん)に分けて配流(はいる)することを決定しました。大聖寺藩では、50人のキリシタンを(あず)かり、明治3年(18701月、大聖寺(しょう)兵衛(べえ)(だに)鉄砲場(てっぽうじょう)長屋(ながや)収容(しゅうよう)しました。藩では、御預けキリシタンたちの改宗(かいしゅう)(せま)るため、藩内の各真宗寺院に説諭(せつゆ)を命じました。説諭は、数人ずつ分けて、各寺院に預け、僧侶(そうりょ)らによっておこなわれました。『大聖寺藩史』によれば、結局、50人のうち、5人が病死し、のこり45人のうち、改心した者は18人であったと記録されています。この浦上キリシタンは、明治57月に金沢の()辰山(たつやま)に送られましたが、こ配流(はいる)については、諸外国からの強い抗議(こうぎ)もあり、明治6年すべての信徒が釈放(しゃくほう)されました。

 

 

 

みの虫一揆

 

 明治4111日、大聖寺藩領内で農民(のうみん)一揆(いっき)が起こりました。この一揆は、(どう)ミノを着た農民の姿が(みの)(むし)()ていたので「みの虫一揆」と呼ばれています。1124日の夜、農民たちは打越(うちこし)勝光寺(しょうこうじ)門前(もんぜん)集結(しゅうけつ)し、大聖寺県租税係(そぜいがかり)などをしていた役人たちの家を次々と(おそ)い打ち(こわ)しました。翌日には農民およそ千人が敷地(しきじ)(むら)(はし)青池(あおいけ)大参事(だいさんじ)らに(しち)(じょう)の要求をつきつけました。その主なる内容は、大聖寺藩が赤字財政を補填(ほてん)するためにとった増税(ぞうぜい)(さく)に対する見直(みなお)しや十村役(とむらやく)廃止(はいし)などでした。この一揆に対して大聖寺県はやむなく兵士を出動させ発砲(はっぽう)したので、農民一人が死亡し数人が負傷(ふしょう)しました。やがて農民たちは退散(たいさん)し、同日の深夜、一揆は鎮定(ちんてい)しました。この一揆では8人から9人が逮捕され、首謀者(しゅぼうしゃ)であった上分校(かみぶんぎょう)(むら)新家(あらいえ)()与門(よもん)は、翌年6月、金沢の刑務所で獄死(ごくし)しました。現在も分校(ぶんぎょう)(まち)には、明治28年に江沼郡の町村長が発起人(ほっきにん)となって建てられた理与門の碑があります。

 

 

 

 

明治・大正期

 

 


明治天皇の北陸巡幸

 

 明治11年、明治政府は太政官布告で天皇の北陸道・東海道の巡幸(じゅんこう)を行なうことを発表しました。巡幸は右大臣岩倉(いわくら)(とも)()や参議大隈(おおくま)重信(しげのぶ)らを(したが)え、総勢798人という空前(くうぜん)の人数でした。830日に東京を出発し、富山県(当時は石川県)に入ったのは928日でした。一行は金沢に3日間滞在し、この間、天皇は石川県庁で県令より(けん)()事業の概要などを()き、産業などの公益(こうえき)功績(こうせき)者の具申(ぐしん)を受けました。そのなかには、製茶の渡辺宗(わたなべそう)三郎(ざぶろう)琵琶(びわ)()()(せん)を走らせた石川(たかし)、九谷焼画工の浅井一毫(いちもう)など、大聖寺の人たちもいました。106日には、小松の(くし)茶屋(ぢゃや)(むら)から動橋村(いぶりはしむら)に入り、その日の午後に大聖寺町に到着しました。敷地村では、前田利鬯(としか)をはじめ、錦城、有隣(ゆうりん)の両小学校の生徒たちのお出迎えをおこない、(あん)在所(ざいしょ)となった錦城小学校には急遽(きゅうきょ)御座所(おましどころ)」がつくられ、その部屋でご休憩をされました。その日のうちに、行列は従来からの北陸道ではなく、明治9年にできたばかりの熊坂新道を通って福井の方へ向かいました。

 

 

 

加州松島社と鉛筆製造

 

明治8年(1875富士(ふじ)写ヶ岳(しゃがだけ)山麓(さんろく)(へぎ)谷村(だにむら)良質(りょうしつ)黒鉛(こくえん)発見(はっけん)されました。この黒鉛を利用して鉛筆(えんぴつ)製造(せいぞう)をしようとようと考えたのが、旧大聖寺(きゅうだいしょうじ)藩士(はんし)で、当時、大蔵省(おおくらしょう)役人(やくにん)をしていた飛鳥(あすか)()(きよし)でした。彼は、この鉛筆製造を窮乏(きゅうぼう)していた旧大聖寺藩士の士族(しぞく)授産(じゅさん)一助(いちじょ)にしたいと考えたのでした。明治1012月、飛鳥井は明治6年に開催(かいさい)されたオーストラリア万国(ばんこく)博覧会(はくらんかい)鉛筆(えんぴつ)製造(せいぞう)の技術を学んできた井口(いぐち)直樹(なおき)という人物(じんぶつ)指導(しどう)を受けて、旧藩士、柿沢(かきざわ)()(へい)工場長(こうじょうちょう)にして「加州(かしゅう)松島社(まつしましゃ)」という会社を大聖寺松島町に創設(そうせつ)しました。理平はさまざまな工夫(くふう)(かさ)ねて、ついには明治16年オランダのアムステルダム

 

万国博覧会で第一級第一等賞を獲得(かくとく)し、舶来品(はくらいひん)(おと)らない良質(りょうしつ)鉛筆(えんぴつ)を大量に作り出すことに成功(せいこう)しました。これは、明治20年に三菱(みつびし)鉛筆(えんぴつ)創始者(そうししゃ)真崎(まざき)()(ろく)が鉛筆の製造を始めた時よりも45年早いこととなります。大聖寺山ノ下寺院群の一つ、久法寺(きゅうほうじ)境内には鉛筆製造に生涯(しょうがい)(ささ)げた柿沢理平の墓があり、その戒名(かいみょう)には「(せい)鉛院造(えんいんぞう)(ひつ)(にっ)(けい)居士(こじ)」と(きざ)まれています。

 

 

 

九谷焼の振興(しんこう)

 

 明治9年(1876)大聖寺の大沢(おおさわ)(じゅう)次郎(じろう)は、フィラデルフィア万国(ばんこく)博覧会(はくらんかい)江沼郡(えぬまぐん)九谷焼(くたにやき)やお茶を出品するために、金沢の貿易商(ぼうえきしょう)円中孫(えんなかまご)(べい)と共にアメリカに(わた)りました。帰国後、横浜に店舗(てんぽ)を開き、九谷焼や漆器(しっき)製茶(せいちゃ)などの郷土の物産(ぶっさん)販売(はんばい)しました。明治11年にはシカゴに支店を設け、販路(はんろ)拡大(かくだい)しました。一方、大聖寺の井上商店(屋号「陶源(とうげん)」)も山中(やまなか)漆器(しっき)や九谷焼を海外(かいがい)()(しゅつ)する貿易商(ぼうえきしょう)として活躍(かつやく)していました。特に、海外の需要(じゅよう)(もと)づき江戸時代の中頃の(そめ)(にしき)伊万里(いまり)(うつ)しを大量に生産しました。これらの焼き物は、仕上(しあ)がりが大変()く、「大聖寺(だいしょうじ)伊万里(いまり)」と()ばれて、江沼郡における九谷焼業界(ぎょうかい)隆盛(りゅうせい)(きず)くもととなりました。

 

 

 

絹織物業と製糸業の発展

 

 江戸時代より、庄や大聖寺において生産された絹織物(きぬおりもの)は、近代以降も江沼郡における最も重要な工業製品でした。なかでも、()(しろ)(はだ)ざわりのよい「羽二重(はぶたえ)」と(しょう)する製品(せいひん)は福井県や石川県の(とく)産品(さんひん)となり、多くの生産額を(ほこ)っていました。江沼郡では主に大聖寺で生産されたため、「大聖寺(だいしょうじ)羽二重(はぶたえ)」として全国に知られ、海外にまで輸出(ゆしゅつ)されました。その後、粗悪(そあく)な製品を出したことで評判(ひょうばん)()としたり、大聖寺の大火(たいか)より多くの工場や事務所(じむしょ)焼失(しょうしつ)したりしたために、一時(いちじ)、生産が()るわなくなった時期(じき)もありましたが、篠原(しのはら)(とうべい)()(みず)(こう)(へい)豊田(とよた)(なべ)(きち)などの大聖寺の機業家(きぎょうか)たち努力(どりょく)により、大聖寺の絹織物は再び隆盛(りゅうせい)をむかえました。

 

 一方、製糸業(せいしぎょう)は、養蚕(ようさん)副業(ふくぎょう)として江戸(えど)時代から行われていましたが、明治15年に郡内(ぐんない)に2ヶ所の製糸(せいし)伝習所(でんしゅうじょ)(もう)けたことで発展(はってん)基礎(きそ)(きず)かれました。

 

明治36年には(ぐん)(りつ)製糸(せいし)伝習所(でんしゅうじょ)設置(せっち)され、製糸業は郡内一円(いちえん)に広まりましたが、大正中頃からはしだいに衰退していきました。

 

 

 

リム・チェーンの製造

 

当地は全国でも有数の、バイク、自動車、機械(きかい)などのリムやチェーンの部品製造(せいぞう)拠点地(きょてんち)となっていますが、そのきっかけとなったのは新家(あらいえ)(くま)(きち)という一人の漆器(しっき)職人(しょくにん)の力によるものでした。

 

初代(しょだい)新家熊吉は元治(がんじ)元年(がんねん)(1864)、山中村で漆器木地(きじ)をひく職人の家に()

 

れました。16歳のとき、すでに家業(かぎょう)を継ぎ、すぐれた技術(ぎじゅつ)を身につけて、家業(かぎょう)成長(せいちょう)させました。明治32年には漆器を輸出(ゆしゅつ)するために中国やロシアなどに出かけましたが、その旅先(たびさき)で見た自転車(じてんしゃ)に強い関心(かんしん)をもちました。それは、自転車の車輪(しゃりん)(リム)が木製(もくせい)であり、その製造に漆器(しっき)製造(せいぞう)技術(ぎじゅつ)役立(やくだ)つのではないかと考えたからでした。

 

明治36年(1903)、熊吉は従業員(じゅうぎょういん)15名で自転車の木製リムを製造する会社「新家(あらや)商会(しょうかい)」をつくりました。新家商会の木製リムは、ほとんどの国産(こくさん)の自転車リムに利用(りよう)されるまでに成長(せいちょう)し、大正2年(1913)には、鉄製(てつせい)リムの生産(せいさん)切り換えるなど、新家商会はこの分野では日本有数の会社にまで発展しました。そのことが元となり、その後、いくつもの変遷(へんせん)を経て、現在の大同工業株式会社となりました。

 

 

 

大聖寺博覧会の開催

 

大聖寺(だいしょうじ)博覧会(はくらんかい)」は、明治12年(1879)の4月から5月にかけて、15日間にわたり、大聖寺の錦城小学校と(せん)(めい)中学校の2か所を会場に盛大(せいだい)に開催されました。この博覧会は、旧大聖寺藩の家老(まえ)()(もとき)(ごんの)大参事(だいさんじ)飛鳥(あすか)()(きよし)らの企画(きかく)によるものでしたが、明治(めいじ)維新(いしん)後の江沼郡における初の博覧会の開催であり、石川県内でも明治5年の金沢(かなざわ)展覧会(てんらんかい)、同7年の金沢博覧会に()ぐ早い時期の開催でした。

 

 

 

大聖寺川を利用した水力発電事業

 

明治15 年(1882)、日本で最初の電灯事業が始まって以後、電力需要(じゅよう)は徐々に高まり、当地にもその波が押し寄せてきました。明治44 年(1911)、電力の必要性をいち早く感じていた北前船主たちが中心となって、「大聖寺川水力(すいりょく)発電(はつでん)株式会社」が創立(そうりつ)されました。山中町に発電所を作り大聖寺や山中・山代の温泉地へ電力供給を始めたのです。一般家庭への電灯供給(きょうきゅう)が第一の目的でしたが、この地域ではそれ以外にも特殊(とくしゅ)な需要がありました。山中・山代の温泉旅館が電灯を必要としていたこと、大聖寺を中心とする機織業や新家工業などを中心とした企業などが電気動力を必要としていたこと、さらには当時すでに山中、大聖寺間と山代、動橋間を結んでいた馬車鉄道を電化するために発電が急がれていたという背景がありました

 

 

 

 

 

大津事件と北ヶ(きたが)市市(いちいち)太郎(たろう)

 

大津(おおつ)事件(じけん)とは、1891(明治24)年5月に日本を訪問中(ほうもんちゅう)のロシア帝国の皇太子(こうたいし)・ニコライ(のちに帝政ロシア最後の皇帝(こうてい)となったニコライ2世)が、いまの滋賀県(しがけん)大津市(おおつし)で、警備(けいび)にあたっていた巡査(じゅんさ)津田(つだ)三蔵(さんぞう)突然(とつぜん)()りかかられ負傷(ふしょう)した暗殺(あんさつ)未遂(みすい)事件(じけん)のことをいいます。この時、津田を()()せ、サーベルを(うば)い、皇太子ニコライの命を(すく)ったのが、ニコライ一行の人力車(じんりきしゃ)(くるま)()きをしていた北ケ(きたが)市市(いちいち)太郎(たろう)ともう1人の車夫(しゃふ)(むかい)(はた)()三郎(さぶろう)の2人でした。北ケ(きたが)市市(いちいち)太郎(たろう)は江沼郡庄村(あざ)加茂(かも)(現在の加賀市加茂町)の出身で、身長は2メートル近くの大男で、明治20年、29歳のとき京都に出て人力車の車夫になったと伝えられています。事件後、この二人は一躍、救国(きゅうこく)英雄(えいゆう)として全国から注目を集めることになり、政府(せいふ)から年金36円が支給(しきゅう)されただけでなく、ロシア政府から当時の金額で2500円の報奨金(ほうしょうきん)1000円の終身(しゅうしん)年金(ねんきん)が与えられました。その後、市太郎は郷里(きょうり)、江沼郡に帰り、明治32年の(ぐん)会議員(かいぎいん)選挙(せんきょ)に出て当選(とうせん)し、郡会議員を(つと)めるなど郷土の名士(めいし)となりました。しかし、その後、日露(にちろ)戦争(せんそう)がおこると、彼はロシアのスパイと非難(ひなん)を受けることとなり、(さみ)しい人生をおくりました。

 

 

 

八十四(はちじゅうし)銀行(ぎんこう)の創業と破綻(はたん)

 

明治11年(187811月、大聖寺に第八十四(だいはちじゅうし)国立(こくりつ)銀行(ぎんこう)設立(せつりつ)されました。当時は、(きん)(ろく)公債(こうさい)()本金(ほんきん)として国立銀行が全国に150行余りが設立(せつりつ)され、八十四銀行はその一つでした。その後、八十四銀行は本店を東京の京橋(きょうばし)(うつ)し、大聖寺をただ一つの支店として経営(けいえい)(つづ)けました。明治30年5月には、(さか)問屋(どんや)経営(けいえい)していた東京の中沢彦(なかざわひこ)(きち)(ゆず)()け、八十四銀行は民営(みんえい)となりました。その後、大聖寺のほかに、東京に5か所の支店を設け、首都圏(しゅとけん)における二流(にりゅう)銀行(ぎんこう)としての地位(ちい)(きず)きました。

 

八十四銀行が順調(じゅんちょう)営業(えいぎょう)(つづ)けていけたのは、創業地(そうぎょうち)である大聖寺支店での織物(おりもの)業主(ぎょうしゅ)北前(きたまえ)船主(せんしゅ)らの多額(たがく)預金(よきん)を背景とした高い業績(ぎょうせき)のためと()われています。

 

ところが、関東(かんとう)大震災(だいしんさい)世界(せかい)恐慌(きょうこう)とそれに伴う大聖寺の織物業(おりものぎょう)不振(ふしん)などのあおりをうけ、昭和23月、一転(いってん)して、八十四銀行は突然(とつぜん)休業(きゅうぎょう)に入りました。これにより、江沼郡では八十四銀行への()()(さわ)ぎがおきました。(ぐん)(やくしょ)や大聖寺町、大聖寺商工会でも預金者(よきんしゃ)への救済(きゅうさい)()()しましたが、営業(えいぎょう)再開(さいかい)目途(めど)はたたず、結局、いくつかの休業(きゅうぎょう)銀行(ぎんこう)整理(せいり)統合(とうごう)した昭和(しょうわ)銀行(ぎんこう)をあらたに設立(せつりつ)することで解決(かいけつ)(はか)られました。半世紀(はんせいき)にわたって江沼郡の金融(きんゆう)(ささ)えてきた八十四(はちじゅうし)銀行(ぎんこう)はその姿を()しました。

 

 

 

片山津温泉の発展

 

片山津温泉(おんせん)の始まりは、1653年(承応(しょうおう)2年)、後に大聖寺藩2代藩主(はんしゅ)となる前田(とし)(あき)が柴山潟(たか)()りに(おとず)れた(さい)水面(みなも)水鳥(みずとり)()れていたことから湖底(こてい)温泉(おんせん)発見(はっけん)したと伝えられています。その後、幕末から明治初年にかけて温泉の掘削を試みた記録がいくつかありますが、いずれも安定した湯量を確保することはできませんでした。

 

 明治9年(1876)、当時、県の役人(やくにん)であった近藤(こんどう)(こう)(そく)らが柴山(しばやま)(がた)大規模(だいきぼ)()()工事(こうじ)を行ない、その結果(けっか)つくられた人工(じんこう)(じま)橋が()けられ、ようやく人々(ひとびと)温泉(おんせん)入浴(にゅうよく)できるようになりました。明治15年(1882)には、井戸掘(いどほ)りの(もり)仁平(にへい)石川郡(いしかわぐん)から(まね)き、さらに掘削(くっさく)し、湯量(ゆりょう)確保(かくほ)することに成功(せいこう)しました以後(いご)温泉(おんせん)旅館(りょかん)次々(つぎつぎ)開業(かいぎょう)し、今日の片山津温泉が形成(けいせい)されました。

 

 

 

近代の戦争と犠牲者

 

 金沢に歩兵第七連隊(れんたい)が配置されたのは明治8年(18759月のことで、この連隊がはじめて戦闘(せんとう)に参加したのは、旧薩摩(さつま)藩を中心とする士族が西郷(さいごう)隆盛(たかもり)(よう)して起こした「西南(せいなん)(えき)(明治10年)でした。西南の役は明治期最大の士族(しぞく)反乱で、この戦いにおける石川県の戦没者は459名と極めて多く、この後、勃発(ぼっぱつ)した日清戦争での犠牲者(ぎせいしゃ)の2倍にもなっています。なお、この西南戦争における江沼郡出身の従軍者(じゅうぐんしゃ)は75名で死者は8名でした。

 

明治27年(1894)の日清戦争は、日本が中国大陸や朝鮮半島でおこなった大規模な対外(たいがい)戦争(せんそう)でしたが、この戦争での石川県全体の戦没者は197名で、このうち江沼郡出身者は19名でした。

 

 明治37年(1904)の日露戦争においては、その犠牲者は日本全体で6万人を超え、日清戦争とは比較にならないほどの犠牲(ぎせい)(こうむ)りました。旧江沼郡出身の戦没者も211名にのぼっていました。

 

 昭和16年(194112月、日米開戦から昭和20年の敗戦までの間、太平洋戦争で犠牲(ぎせい)となった石川県関係の戦没者は22,788人という大きな数となっており、このうち江沼郡出身の戦没者は1,536人でした。

 

 

 

北陸線の開通と電車網の整備

 

明治26年に、敦賀から富山までを結ぶ、国営による北陸線の敷設(ふせつ)工事が始まりました。明治30年には、福井、金津などを経て、大聖寺、小松に至る工事が完了しました。大聖寺駅がオープンしたのが、この年の920日で、当日は、大聖寺駅構内には多くの人々が押し寄せて、警官や駅員がその整理にあたり、列車が到着すると大歓声があがり町民こぞって大喜びしたと伝えられています。

 

ところで、江沼郡に北陸線が開通したことで、本線から奥まったところに位置していた山中温泉で山中馬車(ばしゃ)鉄道(てつどう)株式会社が設立され、明治335月から、山中温泉と大聖寺駅を結ぶ8.6㎞の馬車鉄道が開通(かいつう)しました。引き続き、明治43年に山代温泉と動橋(いぶりはし)間が、大正3年には動橋と片山津温泉間をはしる馬車鉄道がそれぞれ開通し、江沼郡内における北陸線と各温泉地を結ぶ交通網が完成しました。なお、大正元年9月には山中馬車鉄道は山中電気(でんき)軌道(きどう)と社名をあらため、石川県内で最初の電化を実現しました。これを機に、山代片山津の各鉄道馬車も温泉電気軌道(きどう)株式会社として運営が一元化され、加賀温泉郷を結ぶ路線すべてが電車に切り替わました。以後、この電車は、昭和17年までの約30年間にわたって「温電(おんでん)」の名前で愛され続けました。

 

 

 

昭和時代

 

 

福井震災と郷土

 

 戦災の記憶がまだ()めやらぬ昭和23628日の夕方、福井県坂井郡丸岡町(現在の福井県坂井市丸岡町)付近を震源(しんげん)とする大地震が発生しました。地震の規模(きぼ)はマグニチュード7.1でしたが、極めて浅い直下型(ちょっかがた)地震であったため、江沼郡内でも大きな被害(ひがい)がでました。とりわけ大聖寺町、三木(みき)村、瀬越(せごい)村、塩屋村など、福井との県境(けんきょう)に近い町村の被害は甚大(じんだい)でした。結局、江沼郡全域では、死者39名、負傷者451名、住宅全壊(ぜんかい)791戸、半壊(はんかい)1,231戸をはじめ、北陸線の断絶(だんぜつ)、牛の谷トンネル崩落(ほうらく)をはじめ、各地の橋が落下(らっか)するなど、多くの被害をだす未曾有(みぞう)大惨事(だいさんじ)となりました。

 

 

 

学問と芸術

 

 鳥羽(とば)伏見(ふしみ)の戦いで幕府軍が敗北するや、大聖寺藩は、当初の幕府側から一転して新政府側につきました。この間、政治的には主体的な動きができなかったこともあり、その分、教育の振興や学芸の奨励(しょうれい)に力をいれました。

 

 幕末、大聖寺藩は優秀なる藩士を多数、大坂の緒方(おがた)(こう)(あん)(てき)(じゅく)や東京の福沢(ふくざわ)()(きち)の英学塾、安積艮(あさかごん)(さい)が指導する塾をはじめ、金沢や越前大野、長崎などに派遣しました。

 

 また、最後の藩主、14代藩主前田利鬯(としか)も漢学や歌道、絵画、書道、茶道、能楽など幅広い教養を身につけ、特に、能楽では、宝生流(ほうしょうりゅう)(きわ)め、素人ながら芝公園能楽堂の舞台にも立ち、また謡二百五十番を(そら)んじていて、どんな曲でも求められれば即座(そくざ)に歌うことが出来たといわれています。利鬯の努力もあり、この後、大聖寺では(きん)(じょう)能楽会(のうがくかい)が誕生し、宝生流の能楽が伝承されるきっかけとなりました。

 

 当地域のこうした学芸を(とうと)風潮(ふうちょう)は、明治、大正、昭和と受け継がれ、哲学者の木村(もと)(もり)や憲法学者の上杉(しん)(きち)、考古学者の三森(さだお)、科学者の中谷宇吉郎や大幸(おおさか)(ゆう)(きち)、作家の深田久弥、生物学者の木村(あり)()、医学者の桂田富士郎、本川弘一、歌人の西出朝風(ちょうふう)などを輩出(はいしゅつ)する要因ともなりました。