平安時代、都では、藤原氏をはじめとした貴族が朝廷の重要な役職をひとりじめにして、絶大な権力をもっていましたが、やがて、地方の荘園を管理する郡司や豪族たちは、自分たちの土地を守るために武装し、武士団としての力をもつようになりました。その代表が清和天皇の子孫にあたる源氏と、桓武天皇の子孫にあたるは平氏の2大勢力でした。
特に、平安時代末期になると、平清盛は、藤原氏にかわって朝廷を動かすほどの力をもち、ついには「平氏でなければ人でなし」と言われるほどになりました。しかし、平氏の目にあまる横暴は、ほかの貴族や武士たちの反感を買い、各地にひそんでいた源頼朝やその弟、源義経、従弟の木曽義仲らを中心とした源氏が挙兵しました。
寿永2年(1183)平家軍は、倶利伽羅で木曽義仲に大敗し、加賀国篠原(現在の加賀市篠原町あたり)まで逃れてきました。この地で、平家の武将、斉藤実盛は、義仲の家来、手塚太郎光盛に討ち取られました。戦さのあと、義仲が、老武者の髪が黒々としているのを不思議に思い、近くの池でその首を洗わせたところ、白髪まじりの実盛の姿があらわれてきました。義仲にとって、実盛は、幼いときに平氏から命を救ってくれた恩人だったのです。実盛は老武者と思われることを嫌い、白髪を黒く染めて参戦していたのでした。
この実盛の首を洗ったと伝える池が「首洗池」(加賀市手塚町)で、その霊を鎮めるために築いた塚と伝えられるところが「実盛塚」(加賀市篠原新町)なのです。また、実盛が白髪を染めるときに使用した鏡を投げ入れたと伝えている池が深田町の「鏡の池」です。
源頼朝によって鎌倉幕府が成立し、その将軍の家臣を御家人といいます。御家人はほとんどが関東の武士でした。この鎌倉の武家政権は、支配下の地域に守護と地頭を設置し、これに御家人を任命してその地域の武士と土地を管理させ、勢力圏の維持・拡大に努めました。特に承久3年(1221)5月に後鳥羽上皇の幕府打倒の企てが失敗に終わった承久の変の後、幕府が没収した朝廷方の土地にも新補地頭が置かれると、各地で多くの御家人が地頭となり、任じられた土地に土着して地頭の職を世襲するようになりました。
こうして江沼郡に入った外来の地頭の一人、熊坂庄の地頭職を領有した大見実泰は、文永10年(1273)、この庄の当時の領家であった公家の徳大寺家の現地管理者(預所)と争い、とうとう領家と地頭とで土地を折半するという条件で示談とし、半分を自分の領地としてしまいました。これを「和与中分」といいます。この大見氏も伊豆国出身の御家人でした。このように、御家人たちの行動は、荘園を領有する公家や寺社の権利を侵害するばかりでなく、在来の小領主であった武士たちが持つ既得権をも脅かし、その結果として、江沼郡の土豪から平安末以来の武士は姿を消し、鎌倉から南北朝にかけては、代わって東国御家人の外来地頭とその一族が占めるようになりまた。
そのような東国御家人の外来地頭の典型が狩野氏です。狩野氏は伊豆国を本拠とする狩野氏の一族と思われますが、13世紀中期以降、福田庄地頭として登場し、やがて庄内の菅生社の領有権をも入手するようになり、江沼郡で最も有力な国人にまで成長しました。
南北朝の動乱が始まる元弘3年(1333)6月、福田庄菅浪郷総領地頭・菅生社神主の狩野頼広が能美郡の国人らと共に、倒幕運動を展開中の足利高氏(尊氏)に参陣して新政府に属する態度を明確にしました。しかし、新政府は全国の領主や民衆の期待に応える政権でなかったため、各地で建武政権に対する反乱がおこり、その最大の反乱が、建武2年(1335)7月、北条高時の子の時行を擁立した北条一門の残党の鎌倉占領でした。高時以前の北条氏の治世を先代、足利氏を後代、時行を中先代と称したので、これを「中先代の乱」といいます。この反乱に呼応して、越中の前守護名越時有の子の時兼が越中・加賀・能登の軍勢を集め、京都を攻めようと南下した際、「大聖寺ノ城」に楯籠もる敷地伊豆守・山岸新左衛門・上木平九郎らが、越前からの援軍を得て時兼軍を阻止し、潰滅しました。これらはいずれも狩野氏の一族で、敷地(敷地町)・山岸(下福田町)・上木(上木町)を本拠とする小領主として狩野一党を形成していたのです。
建武3年(1336)、建武政権が崩壊して南北朝の動乱期となり、反尊氏派の新田義貞が越前に入ると、義貞と結んだ畑時能が狩野一党を味方に入れました。彼らは越前の細呂木に堡塁を構えて「大聖寺ノ城」に楯籠もる尊氏方の津葉清文を攻め落とし、さらに新田軍に加わり尊氏方の越前守護斯波高経の拠点である越前の府中(越前市武生)を攻めるなど、内乱当初において、狩野一党は後醍醐天皇方として活躍していました。しかし、暦応元年(1338)に新田義貞が越前藤島で戦死して以降は、尊氏の室町幕府に属するようになりました。
こうして狩野一党は、内乱中期から後期を通じて、室町幕府に属しましたが、それは加賀の守護富樫氏の支配下に属するということではなく、直接、室町将軍家から所領の安堵(保証)受ける将軍直参の奉公衆として、室町将軍の直轄軍団に加わったもので、江沼郡最大の武士団としての立場を保持しましたが、
やがて一向一揆の嵐の中に埋没してしまいました。
ところで、古代では公地公民が原則で、土地の私有は認められていませんでしたが、中央政府の力が衰えるにつれて、公地主義を維持することが次第に困難となって、まず特定の貴族や寺社などの権門勢家が、次いで中小の豪族などが土地の私有化を図るようになりました。この傾向は平安時代に入ると強まり、中期以後は私有化された土地が全国的に現れました。こうした私有地を総称して荘園郷保といいます。郷とは古代の行政区画の郷とは異なり、荘園化されずに国家の管理権がまだ維持されていた公領(国衙領)が私領となった土地を、また、保とは郷から分出して独立の領域となった土地を指します。こうした庄や郷が江沼郡では、平安末期の大治2年(1127)までに、菅浪郷・山代郷・南郷・諸田郷と額田庄が、安元2年(1176)までに熊坂庄ができました。この勢いは鎌倉時代以降にさらに進み、福田庄・富墓庄・奈多庄が、南北朝時代に山代庄南郷、室町時代中期には横北郷・弓浪郷が現れました。
福田庄・山代庄本郷・富墓庄は、京都の菅原道真を祀る北野天満宮の社領で、北野宮寺領と呼ばれましたが、加賀国には7ヶ所、江沼郡には3ヶ所も集中していました。現在、加賀市内には菅原道真を祀る菅原神社が多数鎮座しているのは、このことと深く関連があると思われます。その中核が福田庄で、庄内の総鎮守である菅生社に天満宮の分霊が勧請され、菅生天神と称されましたが、荘園支配の実権は地頭狩野氏に握られてしまいました。
南北朝時代以後、山代庄は山代本郷・南郷・弓浪郷の3郷で構成されていましたが、これらが常に北野宮寺領であったわけではなく、公家の園家、守護の富樫氏、地元の武士などによって争われ、各郷ともに複雑な分割領有の状態となって室町末期の一向一揆の時代を迎えることになりました。富墓庄も同様に室町中期には宮寺領とは名目だけで、地元の武士に侵害され、わずかに菅原道真の後裔の高辻家が権益の一部を保つだけになっていました。
このように、本所・領家と呼ばれる荘園領主の貴族や寺社は、現地に管理者を派遣するか、地元の有力な土豪(国人)に管理を委ねましたが、それに伴う権益をめぐって、当然ながら地元の管理者との間に争いが起こってきました。特に15世紀末、一向宗が盛んになると、多くの国人が門徒化して百姓と一体となり、必ずしも荘園領主が要望する年貢納入に応えなくなりました。さらに一向一揆が激化する中で、各村落で村殿といわれる小土豪が小領主として成長し、こうした小領主によって、荘園は名ばかりのものとなっていきました。
そうした中で、現地に留まって直接荘園支配に努める領主も現れました。富墓庄では高辻継長が文明5年(1473)から3年、弓浪郷では藤原北家の流れの園基富・基国父子が文明18年(1486)から2代にわたり30余年間、さらに、額田庄・八田庄では村上源氏の流れをくむ中院通世・通胤・通為父子が文亀元年(1501)頃から3代にわたって約65年間、一向一揆が激化する中で、それぞれ家領の維持を図るため、京都を離れて現地に下向し、直接経営にあたっています。このように京都の上級貴族が長期にわたって地元勢力の侵入を防いで、荘園支配に努力しなければ、荘園からの権益確保ができない状況になっていました。
鎌倉新仏教のうち、最初に江沼の地へ進出したのは、一遍智真が開いた時宗でした。一遍は念仏の札を賦りながら全国各地を巡って歩きました。これを遊行といいます。しかし、一遍は北陸に足を踏み入れることなく没するが、跡を継いだ2世遊行上人真教は正応4年(1291)8月、加賀へ遊行し、これが江沼の民衆が念仏の法流に接した最初となりました。遊行に際して結縁した人々を時衆と呼びますが、この時衆は、南北朝時代以降、柴山・林・額田・大聖寺などの海岸寄り一帯に広がり、潮津の西光寺がその中心となりました。そのような時宗最盛期の応永21年(1414)3月、14世遊行上人太空が潮津で別時念仏を興行した時、源平争乱の篠原の戦いで討ち死にした斎藤実盛の霊があらわれ、太空はこの怨霊を懇ろに供養し鎮魂したといいます。この話をもとに世阿弥が謡曲「実盛」を著しました。以降、歴代の遊行上人は加賀に至ると、必ず実盛塚に詣でて回向するのが重要な行事となり、今日までこの例は堅く守られています。しかし、この地の時衆は、一向宗と呼ばれた浄土真宗が盛んになる戦国時代に入ると、ほとんど姿を消しました。
時宗についで念仏の法統をもたらしたのは、親鸞を開祖と仰ぐ浄土真宗でしたが、最初に真宗の念仏を伝えたのは、本願寺の系列ではなく、親鸞に教化された関東の門徒たちが直弟子の真仏を中心に結集した高田派でした。この法系を引く三河門徒団が、尾張・美濃を経て越前大野郡に進出しました。その中心人物が越前大野に専修寺を開いた如道で、この越前に展開した門徒団を総称して三門徒派といい、室町初期までに越前で強い勢力をもつようになり、やがて江沼郡にも教線をのばし、その分派が江沼に移って、後の月津の興宗寺、小松の本覚寺、山代の専光寺となりますが、これらの諸寺はいずれも本願寺8世蓮如の布教後に転派し、本願寺派となっていきました。
このように優勢な三門徒・高田派系に囲まれて、荻生願成寺・河崎専称寺・打越勝光寺などの数少ない本願寺派の寺院は孤立した存在となっていました。このうち荻生願成寺は、現在、大聖寺願成寺が所蔵する『親鸞絵伝』の裏書に応永26年(1419)とあり、全国的にみて最古のものであることから、15世紀初頭には本願寺派の寺院として成立していたと思われますが、これらが本願寺系として勢力拡大に向かうのは、本願寺7世存如が宝徳元年(1449)に河崎専称寺へ『親鸞絵伝』を下し、蓮如を伴って越前から加賀に入り、布教活動を開始してからのことで、それ以降、高田派と本願寺派は加賀・越前において激烈な抗争に入っていくことになります。
文明3年(1471)7月、本願寺8世蓮如が加賀・越前の国境、吉崎に道場を開きました。当時、蓮如は比叡山延暦寺衆徒に追われ、近江(滋賀県)を転々としていましたが、ついには北陸にまで避難するかたちで、吉崎に拠点を設け、三門徒派・高田派を秘事法門と批判して退け、その派の諸寺や門徒の本願寺派への吸収を図るとともに、盛んに御文を発して農民層を中心にして精力的に布教しました。その結果、吉崎御坊にはまたたく間に多くの参詣者がつめかけるようになり、吉崎は仏教都市になりました。
こうして、北陸一円では蓮如上人のもとで浄土真宗が急速に広まっていきましたが、その背景として浄土真宗の本尊が白山大汝峰の本地仏である阿弥陀如来であったことが考えられます。白山信仰や浄土真宗は、近世以降も引き継がれ、現在も市内の神社の5割弱で白山神を祀り、また、寺院では浄土真宗が8割を上回るなど、白山信仰と浄土真宗は、当地の信仰心の核となっています。
その頃、加賀の守護職をめぐって富樫政親と弟の幸千代が争っていましたが、蓮如が吉崎に進出した頃は、幸千代が優勢で、政親は文明5年(1473)に越前に逃げる状況でした。幸千代側は土豪層の武士と高田派が中心で、本願寺派が吉崎を拠点にして加賀に勢力を伸ばす状勢を打破しょうとしていました。これに着目した政親が本願寺門徒と手を結び、文明6年に加賀に打入り、幸千代の能美郡蓮台寺城を陥して守護職奪還に成功しました。ところが、本願寺門徒の協力で勝利を得たにもかかわらず、守護富樫政親は門徒を弾圧する方針をとるようになると、文明7年(1475)3月、門徒は蜂起し政親と対決しましたが、敗北して越中へ追い散らされ、吉崎も反政親派の拠点として政親の圧力をうけることになり、結局、蓮如は、同年8月吉崎を退去しました。
しかし、本願寺派の進出は、守護や土豪などの領主層の支配から離れようとしつつある農民層を門徒化していった結果、一向衆として農民層の団結が強まり、村落自治を成立させました。こうした農村内部の変化によって、国人や地侍と呼ばれる村殿層の中小在地土豪たちは、門徒化した惣百姓と協調するために自身も門徒化し、惣百姓の要求を組織化することによって勢力の維持を図るようになりました。その結果、在地を支配する一向衆と、一向衆を打倒しょうとする守護勢力との抗争が深まっていき、ついに長享2年(1288)春、この状況を危機とみた富樫政親が、将軍に従って出陣していた近江から急いで帰国し、居城高尾城の防御を固めると、一向一揆は加賀の各地で蜂起し、高尾城を包囲して落城させ、6月に政親を自害させました。この時、越前守護朝倉氏の富樫への援軍も、福田・敷地などに陣を構えていた一揆軍に破られ、空しく引き上げました。この文明・長享の一向一揆の勝利によって、約1世紀の間、加賀に「百姓の持ちたる国」が成立しました。
しかし、それ以降も加越国境では、一揆軍と朝倉軍の戦闘は続き、永正元年(1504)頃から畿内を中心に北陸・東海地方の一向一揆が一斉に蜂起して戦国大名と対決する事態となりました。この動きに呼応して、永正3年(1506)7月、加賀一向一揆も大挙して越前へ攻めこみました。この永正一揆は当初、一揆方が優勢で、たちまち九頭竜川以北を占領しましたが、九頭竜川畔の戦いで朝倉軍に惨敗し、3分の2の兵力を失って加賀へ逃げ帰りました。この時、江沼の一揆軍を率いたのは、黒瀬を本拠とする黒瀬覚道らの大土豪でした。
この大敗北によって、越前では本願寺勢力が一掃されました。吉崎道場は完全に破壊され、有力寺院である藤島の超勝寺や和田の本覚寺なども破却され、加賀に亡命せざるを得ませんでした。本覚寺は能美郡の和田山に移り、超勝寺は江沼郡東北部に居を構えました。現在、林・二ッ梨・塔尾に超勝寺と伝えられる遺跡があります。
ところで、蓮如が吉崎に進出する以前に、河北郡二俣の本泉寺を蓮如の次男蓮乗が嗣ぎ、3男蓮綱は能美郡波佐谷の松岡寺を開いていました。そして、江沼郡の山田に山田坊が開創され、そこに文明18年(1486)頃に蓮如の4男蓮誓が江沼郡の門徒から取り立てられて光教寺と号することになりました。この蓮如の子が住持する寺を「加州三ヶ寺」、蓮乗・蓮綱・蓮誓の3兄弟を「三山の大坊主」といいます。蓮如の後を継いだ本願寺9世実如は5男で、この三ヶ寺は加賀で本願寺と最も血縁の濃い一門でしたから、長享一揆以降、加賀の一向一揆はこの三ヶ寺によって統制される、いわゆる「加州三ヶ寺体制」がしかれました。
しかし、実如の跡を継いだ本願寺10世証如の時代になると、次第に門徒百姓は在地の大寺院の支配から離れて直接本願寺に結びつく、直参門徒になる志望を強めるようになり、このような門徒の動向を察した本願寺は、越前帰還を望み三ヶ寺と対抗関係にあった超勝寺との連携を深め、反三ヶ寺体制の姿勢を示すようになりました。これに対し享禄4年(1531)、三ヶ寺派は実力行動で超勝寺を討つことを決定しましたが、超勝寺一党が攻撃に出て波佐谷の松岡寺を滅ぼし、次いで二俣から移っていた若松の本泉寺を焼亡させました。さらに超勝寺一党は江沼郡に攻め込みました。光教寺では父蓮誓の跡を嗣いだ顕誓を中心に、黒瀬覚道・福田ノ竹太夫・柴山・一針らの有力国人らが越前朝倉の援軍を得て戦いましたが破れて退却、越前に逃れました。この事件を享禄の錯乱といい、大坊主と有力国人が主導権を持つ「加州三ヶ寺体制」は消滅し、ここに名実ともに本願寺直参衆を中心とした本願寺王国が出現したのです。
こうした門徒たちにとって、真宗布教の基本であり、発展の原動力となったのが、集まって念仏し法談する構でした。蓮如の吉崎進出以降、各村々に多くの構が生まれ、それらを総括する江沼郡全体の講として、「六日講」ができました。この講は門徒の信仰を固めるという基礎的役割を果たすだけでなく、法主の教化に対する報恩の志、すなわち懇志(寺に納める銭や米)を集める場でもあり、「六日講」の懇志は本願寺に納められ、そこを支える経済的基盤の機能も併せもったものでした。
また、一向一揆には組と呼ばれる軍事組織がありました。組を構成するのは、同一地域の国人・土豪や有力農民などで、代表は組の寄合で選び、それを旗本といいます。本願寺はこの旗本を通じて統制し、その機能は組内の課税や裁判を含む行政権、本願寺の警備などでした。江沼郡にはどの程度の組が存在したのかは分かっていませんが、大聖寺川下流域を区域とする「菅生組」がありました。
このように一向一揆の支配体系は、形式的には本願寺を頂点とし組・講を基礎とする法王国ですが、構造的には組・講を構成する主要素の有力百姓、いわゆる中世の百姓に基礎をおくものでした。
本願寺では実如の晩年に越前の朝倉氏との間で和睦が成立していましたが、共に戦国大名への道を邁進していた両者の共存は許されなく、加越国境の平和も永くは続きませんでした。
証如の跡に11世顕如が本願寺法主となると、弘治元年(1555)、越前の朝倉宗滴が一向一揆を潰滅させようと、加賀へ大挙して侵入し、ここに再び、以後10余年にわたる加越抗争が始まりました。南郷城に黒瀬掃部丞・藤丸新介、作見の千足城に大坂・潟山津大助・振橋帯刀らが率いる江沼郡の一揆勢は総力をあげて大聖寺―南郷の線で朝倉勢の進撃を阻止しょうとしました。しかし、防ぎきれずに津葉城や南郷城を捨てて退却した一揆勢は、加賀4郡の総力を結集して反撃に出ました。ところが、再度敗北し、江沼郡の一揆の運命は風前の燈となりましたが、敷地の金吾城に本陣を構えていた総大将朝倉宗滴が発病し、朝倉勢が越前に引き上げたので事なきを得ました。その後も一向一揆と朝倉氏の抗争は続きましたが、永禄10年(1567)、越前一乗谷の朝倉館に身を寄せていた足利義昭の仲介でようやく和睦が成立し、その結果、江沼郡の一揆方の拠点であった柏野・松山両城と、朝倉氏の管理下に置かれていた黒谷・桧の谷(日谷)・大聖寺の3城が破却され、北陸道の封鎖も解かれることになりました。
天正3年(1575)長篠の合戦で武田軍を破った織田信長は、北陸を平定するために越前に侵入しました。羽柴秀吉や丹羽長秀、柴田勝家らの織田軍の先鋒は、ついには加賀へ討ち入り、大聖寺、敷地、山中の各城を攻め落とし、江沼郡を占領しました。その後、能美の一揆勢も破って手取川まで進出しました。ここに、江沼・能美の両郡は、百年近くに及んだ一向一揆と本願寺配下から離され、新たに織田信長の占領下に入ることとなりました。
このあと、信長は北陸総司令官として柴田勝家を越前北庄(現在の福井市)に置き、江沼地域の拠点であった大聖寺城には、天正4年に、戸次右近広正が、天正8年(1580)には柴田勝家の家来、拝郷五左衛門家嘉が城主となって当地を治めました。